同時にミュンヘン大学にも通い、1905年に博士号を取得した。その翌年からは、サンクトペテルブルク工科大学に就職し、後に彼はここの教授になった。1911年、その時すでにミリカンが電子素量を求める実験を行っていたが、ヨッフェは彼とはまた違う独立したやり方により電子素量を求めた。そしてその論文を1913年に発表している。1915年、物理学博士号を取得。その当時、ソ連では原爆製造プロジェクトなるものが始動していた。ヨッフェもそのメンバーに誘われていたが、彼はこれを断った。その代わりに、弟子であったクルチャトフを推薦した。ロシアがスターリンの時代に突入すると、ユダヤ人であったヨッフェはユダヤ狩りの対象となりその身を追われることとなったが、最終的にはなんとか逃れることができた。1942年にはスターリン賞、1960年にはレーニン賞を受賞した。カピッツァに話を戻そう。その後、1923年に学位を獲得した。
それは1934年のことであった。休暇をもらったカピッツァはソビエトに帰ることにした。しかし、これを聞きつけたスターリンは、カピッツァが再び出国することを許さなかった。これにはスターリンなりの考えがあってのことだろう。そして、スターリンは、カピッツァのために、新たな研究所を設立するように命令した。一方、ラザフォードは、カピッツァが使うはずであった実験設備がケンブリッジにのこされたままであったので、それをケンブリッジからモスクワまで郵送した。これによって完成した研究所にて、カピッツァはヘリウム4を液化させ、超流動性を示すことを発見した。これは1937年のことであった。カピッツァはというと、ソビエトに帰ってくる前は、長い海外生活をおくっていた。そこでの日常が彼にとっては当たり前となっており、政府高官に対し、何通にもわたる注文書を送り付け、かなり自由にふるまっていた。しかし、これを見たスターリンをはじめとする、ソ連指導部の人間は彼にいい印象を受けなかった。
スターリンがカピッツァに対して出した渡航禁止に対し、ラザフォードは、それに抗議の内容の手紙を送りつけたが、スターリンはこれを無視した。いまだにスターリンに意図はわからないが、おそらく何かしらの研究を彼にさせたかったのだろう。しかし、しばらくしてソビエトより折り返しの手紙が来た。その内容とは、「イギリスがカピッツァを欲しがっていることは重々承知である。しかし、我々もあなた方と同じくらい彼を必要としている。」とあった。やはりスターリンはカピッツァに何かをさせようと考えていたのである。スターリンに直接言っても意味がないと感じたラザフォードは、当時イギリスの首相であったボールドウィンに掛け合ってどうにかカピッツァを取り戻すようにお願いをしたが、結果としは無駄に終わってしまった。ここで、話を再びダグラス・ハートリーに戻そう。1926年にシュレディンガー方程式が公表された。その方程式にハートリーは微分方程式、数値解析の知識を応用させ、量子力学に貢献した。